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イクばあちゃんと ヒノばあちゃん
(その3)

文・イラスト / 貴船庄二

 シ  ッシッシッ…掛け声を発しながら、大して きつくない坂道をヒノばあちゃんは登って来 た。ぬい子と森は手をつないで先に坂道を駆け 下り、妻は真木を背負って買物に出かける。シッ シッシッ…竹籠を背負い、何か重いものが入っ ているらしく、ヒノばあちやんは一歩一歩登っ て来る。すれ違う時、竹籠の中にガス・ボンベ が入っているのが分った。
 ばあちゃん…重いものは私たちが運ぶよ…と 声を掛ければ、小柄なヒノばあちやんは振り仰 いで、「やあ、よかのよ…自分で出来るあいだ は自分でするよ…」と答える。ばあちやんは私 たちのすぐ斜め下の小さな家に独り暮してい る。私たちがその家の前を通って出かける時、 小さな庭の草をむしっている姿をよく見かけ る。あちこちにまつばぼたんが残っていて、か わいい花が顔をのぞかせていた。聞くところに よれば、ばあちやんは誰かの後添いとなったが その人は疾うに亡くなり、子供を持たず、ずっ と独り暮しだという。どこかにまだ小娘を置き 忘れ、周りからとり残され忘れられたという風 で、そのまつばぼたんを思わせた。

 私たちに頼みごとをしたこともないヒノばあ ちやんは、成る目、慌てた風で我が家を訪ねた。 ラジオが聞えんようになって…見て具れんやろ か…と差し出した小さなラジオは、私が子供の 頃いじったイヤホーンで聞く鉱石ラジオだっ た。慎重に扱って来たらしいがダイヤルを動か してしまったらしく、ただ調整するだけのこと だった。

 梅  雨入りしたころ、家主が明日トビ魚漁に出 るが乗るかと言う。私は乗りものに弱いくせし て興味もあって乗ることにした。未だ簿暗い中 桟橋に下りた。イチノミヤ氏も誘われたらしい。 私たちは船頭から指示されて四トン程の二艘に 分乗した。湾を出ると、定期船太陽丸の航路と は逆の西に進路をとった。海辺はどこも険しく、 岩々が織り成す様は筆舌につくしがたしで、太 古の岩層が海から飛ぴ出し、突っ込み、ただた だ圧倒されるばかりだ。自生するエラプツツジ は黒々とした岩の中で、まだ陽を浴ぴず、その 薄紫色の花々は内から光りを放っている。
 漁場についたらしく、船を止め用意を始めた。 とたんに私は気分が悪くなり出した。二艘は相 寄り、肥科袋を細長く切ったビニールの紐を等 間隔にだらだら結い付けたロープを、互いに船 の艫(とも)に結ぴ、 二艘はトロトロと離れつつ引いて いく。これでトビ魚を追い集めるらしい。二艘 は五十メートル程離れたまま、二十分程トロト ロ並ぴ走っただろうか、艫に結ぴ引いて来た小 舟で網を打ちながら向うの船に手渡した。その 間私は何もしているわけではないのだが、冷汗 が出て、漁船などに乗った我と我が身を呪い倒 していた。朝、出掛ける前に飲んだコーヒーと 一欠けのパンなど既に海の中で、もう出すもの などそれこそ一かけらもなく、船縁で悶えてい た。

 両  船は威しのローブを手繰り寄せ、弧を描い て相寄った。一艘に十人程乗組んでいて、双方 から三人程大声を張り挙げ海に飛ぴ込み、残っ た私たちはエイッサ、エイッサと網を引き出し た。いやこれは正確ではなく、私を除いてと言 わねばならない。私は引くというより撫でてい ると言った方が宣しい訳で、「ソコ〜ッ!ナン シチョットカ〜ッ!」と怒鳴られ通しで、その 都度全身で指にカを入れるのだが、とたんに胃 袋が飛ぴ出しそうで、私はウォーッサ、ウォー ッサなのである。飛ぴ込んだ連中は海の中で手 足頭あらゆるところを振り回し、大声奇声を発 し、いわゆる癲狂院でも斯くはあるまいと思う 程、手足頭を使って海水をビシャビシャ叩く。 私は朦朧とする頭の隅で…ああ…魚をおどしと んのやなあ…保つやろか…と思った。
 早朝から午後三時頃までこれを繰り返し、ほ とんど魚のかからない時もあったが、一網で二 千匹位かかったろうか、甲板はトビ魚で埋まっ た。朦朧たる私はフワフワ揺れる船と魚に足を 掬われ、トビ魚の中で游ぎ回った。昼倉時は最 悪であった。凪の部類に入る海であったが、エ ンジンを止めたフワフワする船の甲板で皆弁当 を開いた。弁当といっても白飯だけで、トビ魚 を三枚におろし、歯で皮の端を押さえピッと身 から剰ぎ、その大きな肉片を醤油に浸し、白飯 を口にほうり込んではその肉片を喰いちぎる。 私の鼻先にその肉片を差し出しからかう者も居 て、私はトビ魚の中でほとんど瀕死の態であった。


 穏  やかな初夏の日、ヒノばあちやんは両手に 小さな白い紙包を持って、珍しく我が家の土間 の戸口に現れた。

こんにちは…今日はよか日和 で…遊ぴに来たよ…と遥か彼方からやってきた ように言う。差し出した白い紙包は子供たちヘ の手土産で、幾種類かの葉子をチリ紙でくるみ、 口をキュッと捻ってあった。妻は土間に据えた テーブルに椅子を勧め、茶を差した。ぱあちゃ んは明るい土間を物珍しく眺め、子供たちにあ いさつをし、茶の振舞いに礼を述ベ、少し口に 含んで…都の話でも聞かせて呉れやい…と言 った。ばあちやんは生まれてから島の外へ一歩 も出たことがないそうで、昔は多くの人が、特 に女性はそうだったのだろう。私たちはばあちゃ んに都のどんな話をしたのか思い出せない。

 島に移り住んで再ぴ冬が来て、ヒノばあちゃ んは風邪をひいて寝込み、一週間程して亡くな った。その間ちょこちょこ出入りしていた妻は …ぱあちやんはご飯が食べられなくなったとい うより…食べるのをやめたみたい…と言った。
同じ冬、イクばあちゃんも亡くなったが、どち らが先で後であったか今では思い出せない。

 当時、島で亡くなれば土葬に付され、イクぱ あちゃんもヒノばあちゃんも湾を見下ろす丘に 眠っている。

 先  月、新造の上屋久町営船フェリー太陽が就 航した。町営船としては三艘目で、四百トンの 真新しい船内は今風のラウンジもあり酒落た椅 子が並ぴ、様々な設備の充実が図られている。 私たちがこの島に移住した頃、太陽丸は五十ト ン、桟橋は幅三メートル程で、長さは二十メー トル程梅に突き出ているだけであった。大きな 船を着けるには大きな桟橋が要るわけで、島民 は滅る一方だが船や桟橋は大きくなる。五十ト ンの太陽丸が入港した頃は、島民こぞって荷降 しをした。船が入る度に皆ニコニコワイワイガ ヤガヤ楽しそうで、桟橋は用が無くても寄り集 る島民の顔合わせ場であった。
 十年程経て、二百トンのフェリー第二太陽丸 が就航した。ロ永良部港に入った二百トンの第 二太陽丸は流石に大きく、皆頼もしさを感じた。 船のハッチが開くと自動車が自ら出て来る。フ ォークリフトが船内に入り、山積の荷があっと いう間に出てくる。手渡し作業などはなくなり、 島民が桟橋へ出てゆくこともすくなくなった。 より便利で豊かになれぱその分、失われてゆく ものがある。それは人の心の輝き、気魄であり、 人との絆である。
 この原稿を書いている時、次女の真木が島ヘ 帰って来たのだが、ポロポロ涙を流している。 なんで泣いているのか聞いてみると、それだけ 腹が太くなると船に乗ってもらうのは困る、な るべく早く屋久島か鹿児島へ渡り出産の用意を してもらいたい、といった意味のことを言われ たと話す。船の切符を買う時も、何か非難を受 けているようで心苦しかったと話す。真木は島 のUターン青年と結婚して九月に出産予定で、 八ヶ月になった腹の児の検診のため屋久島へ出向 き、就航したばかりのフェリー太陽に乗って 島へ戻って来たのである。
 初代の太陽丸は屋久島まで二時問二十分要し た。その頃の妊婦は出産予定間近まで仕事に就 き、家事をし、屋久島に渡った。そんな事で咎 められることは無かった。出産は目出度いこと であり、太陽丸は小柄で欠航日数は多かったが、 生活航路の定期船として、気魄を持つ逞しい船 であった。今、太陽丸は屋久島まで一時間四十 分で着くフェリー太陽となり、大きく速くなっ たその利便は、妊婦を目出度いものだと観る眼 と心を雲らせ、船内で出産されては困るという、 仕事上の利害を中心に考える人の心と社会をい つの間にかつくり出す。
 フェリー太陽は観光船ではあるまい、この口 永良部島にとっては生活航路船であり、生命線 である。一時間四十分の間に、船内で赤児が生 まれることなどまず無いし、二時問二十分かか つた頃でも無かった。出産のためにニヶ月も一 ヶ月も前から島を出て、親類縁者の許に身を寄 せたり、多額の費用を費やし宿をとり、妊婦が 良い出産状態に成ると思うのかね。用心しなが らも、妊婦は出産間近まで逞しく家事仕事をし てこそ、丈夫な児が産めるというものだ。もし 万が一船内で出産の事態になれば、皆誠心誠意、 船員も乗客もカを合わせて対処しなけれぱなら ない。そのためには、出産に対する基礎知識を 持つ船員を配置すれば宜しい訳で、私たち一般 の人々も、出産に臆することなく協力出来る心 根と知識を培わねぱならない。
 月数を超えた妊婦の乗船を視制するというこ とは、安易で非人道的な方法である。それは人 類の母たる妊婦を女性を侮蔑することであっ て、己れ自身を否定することである。分かり易 く言うと、一人の女性が我が身を削ってでも腹 の中に次代の生命を育んでいて、私たちはその 女の腹から生れる。産み月の近づいた妊婦は船 に乗ってもらうのは困るという人の社会は、己 れの母を妻を子をそして全女性をぱかにするこ とであり、女の腹から生れた自分自身を認めな いことである。
 特にこの口永良部島は、子供を産み育てる若 い人たちを必要とする島である。島の未来を拓 くために、そして全ての妊婦の尊厳に対して、 生活航路船であるフェリー太陽は、産み月数で 乗船規制などせず、町営定期船として対応シス テムを確立することこそ大事である。

 イ  クぱあちゃんやヒノばあちゃんは、私たち を取り巻く今の利便安易に、さほど侵されずに 生きた最後の部類の人たちであった。私たちの 人生とただ一年程重なっただけではあったが、 今の私たちが失っているものを垣間見せ、良き 年寄りの役割を果たして下さったと、改めて感 謝している。


上の私の文(注-季刊誌「生命の島」43号に褐載)で、妊婦に対する 上屋久町営船のあり方に触れた部分に、不満 の声が届いているとのことである。その不満 の声とは、看護婦か保健婦を島へ派遣して乗 船の対応をとる施策を定め実施したではない か、ということらしい。
 原稿を編集者に発送した後のことである が、町長に直接島の実状を訴え見解を糾した ところ、フェリー太陽は口永良部島にとって は生活航路船であり、必要なときは看講婦も しくは保健婦を派遣したいと返答を受け、そ れは直ちに実施された。私たちは誠に感謝し ている次第である。
 更に私たちが望むことを申し上げれば、派 遣要請などせずとも何時でも白由に妊婦が乗 船出来ることが当り前であり、望ましいので ある。いくら口永良部島の妊婦と難も陣痛 が始まってから乗りはしない。私たちにも常 識はある。少くとも予定日の一週間や十日位 前から島外に出て準備はする。二ヶ月も三ヶ 月も前から親元や縁者と言えども身を寄せる 気苦労は、皆さんもお分かりであろう。まし てや旅館や民宿を用いるとすれば相当の費用 が要ることも、お分かりであろう。慣れた生 活から難れ、永い月日を過ごす妊婦の心身が、 出産の状態に良いと思われるだろうか。
 婦婦にとって有難いのは、皆さんが目出度 い眼で見てくれることであろうし、もしもの ことがあれば何時でも協力するぞという皆さ んの心根であろう。

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