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イクばあちゃんと ヒノばあちゃん
(その2)

文・イラスト / 貴船庄二

 未  熟児は口永良部の一字をとって由永(ゆえ)と名 付けられた。まことに小さくはあるが、生命力 の強いゆえちやんは育った。前歯が生え出る頃 普通は二本並んで生えてくるものだが、ゆえち やんは一本だけが先にニョキッと生えてきた。 かわいい顔をしているのだが、ニッと笑うとそ の一本歯がニョキッと見えて、なにか不気味な のだ。おちょぼ口のくせに大喰いで、バナナな ど与えるとそれこそ大きく広がり、噛むという 風ではなく指で端を押し呑み込んでいる風で、 やはり不気味なのだ。這い出す頃になると 板間の端を土間に落ちずに器用に這ってゆく。 サーカスに売り飛ばせばいい値が付くかも知れ ないなぁ…。

 厳  しい寒波が統く冬ではあったが穏やかな天 気が数日続くこともあった。流石に南国で陽が 出るとポカポカと暖かく、節々がゆるみのぴの ぴとする。妻はそんな日イクばあちゃんを訪ね て腹の具合いを診てもらう。ばあちゃんはいつ も囲炉裏の端に座り火を絶やさない。腕位の太 さのケサの木を三本程突き合わせ、チョロチョ ロ焔を出してはいるが煙はほとんど出ない。ば あちゃんが言うには、薪は端から徐々に燃すと 煙はあまり出ないそうで、火を掻き立てる時は 細い火吹き竹でフッとひと吹きすると焔が太く なる。煤けた薄暗い部屋がフッと明るくなり、 イクぱあちゃんがなにやら魔女めいてみえる。 息子が営む旅館から少し離れた田圃端のじめじ めした小さな家のその囲炉裏端で、ばあちゃん はそうやっていつも火の守りをしている。そん な中で、イクばあちゃんは過ぎ去った数々の 日々を思い出しているのだろうか。

 そ  の囲炉裏部屋で妻は産み月が近づいてもま だ横を向いている腹の児をゆっくりと擦っても らう。妻はばあちゃんにとり上げてもらいたか ったのだがばあちゃんは…もうこんな歳で体も 自由に動かん…あんたは鹿児島へ出て産むがよ か…と島を出るまで腹を擦ってもらい、腹の児 は当り前の位置に治まった。 明日は鹿児島へというその夜、海は又荒れだ した。時化は続き十日目に船が来たとき、既に 予定日は遇ぎていたが腹の児は中でふみとどま っていた。私と二人の子供たちは島に残り、妻 は一人で風呂敷包みを持って午後出航の太陽丸 に乗った。五十トンの太陽丸は木の葉のごとく 荒海に揉まれ、タ刻やっとこすっとこ屋久島へ 着いたが鹿児島への船はもう無い。歩いて五分 程、当時の国民宿舎に妻は宿をとった。用心し て一階の部屋を借り、翌朝鹿児島行のフェリー に乗るが大きい船とはいえこの荒海に激しく揺 れる。腹の児はやはりふみとどまっていた。腹 の児はその機が来るまで決して出ないつもりで いたらしく、分かっていたのだろう。

 妻  は島の看護婦から聞いた産婦人科医院を訪 ねた。島からお産に来た由を伝えると、医師は 満員であるにもかかわらず快く迎え入れてくれ た。数時間して急激な陣痛が起り、その痛さは 尋常ではないと妻は思った。この世に出た赤児 は血色は臭いのだが羊水を飲んで息は無い。妻 は夥しい出血を起しそれは止まることなく流れ 出、砂に水が滲み込むように意識も薄れてゆく。 ただただ寒くて…ああ死ぬんだなあ…死ぬって 何もないことなんだなぁ…と妻は思う。
 医師は懸命にチュープで赤児の肺に溜った羊 水を吸い取り、赤児を保育器に入れて妻に確り と言った…子供は駄目かもしれない…しかし今 は貴女の命を取り留めねばならない…今から手 術にとりかかります…いいですね…。医師は手 術のスタッフを急遽招請した。そのスタッフは 他の病院でちょうど手術を終えてお茶を飲んで いたそうで、着替えもせず全員駆け付けたとい う。妻の子宮はぱっくり裂けていた。

 妻  が長女を出産したときは東京の小平市に住 んでいて、私たちはその頃本当に無知であった。 世の中のことも私たち自身のこともまるでわけ が分からなかった。妻は近所の産婦人科医院に 通い、出産が追ると私と妻は医師に呼ぴ出され、 帝王切開しなければならないと告げられ、レン トゲン写真を見せられ、全く疑うということが なかった。医者は医者であり、どの医者も同じ だなどと思っていた。そして長女は生れた。
 子供を育てながら私たちも成長した。様々な 仕事に就き自ら金を稼ぎ、様々な人を見た。書 物を読み、絵画や彫刻を覧て廻り、音楽を聴い た。そして通俗なものとそうでないものが有る ことを知った。圧倒的量の通俗なものの中で、 そうでないものがいかに少く、貴く、気高いも のであるかを知った。いかに多くの人たちがそ の気高さを知らずに生きているかを知った。そ の気高さを求める人を見た。そしてその気高さ を持つ人も見た。社会がどの様な仕組みになっ ているのか分った。様々な社会の型の違いはあ っても多くの人たちが望むものは同じであるこ とも分った。

 長  男を出産する時は医師と病院を選んだ。四 キログラムに近い長男はごく当り前に生れた。 次女もごく当り前に産めるだろうと思ったがそ うはいかなかった。帝王切開を行った医師の責 任は厳然としてあるが、無知であった私たちの 責任は更に重い。私たちはこの世の不正と闘う 時、各自がこの世に対する全ての責任が我が身 にあるということを自覚していなければならな い。この世の不正と闘うことと、己れの無知蒙 昧と闘うことが同時になされなければならな い。これは人としての原則であり基本である。

 手  術はうまくいって妻は一命をとりとめた。
妻が意識を取戻した時、まず聞かされたことは 次女が息を吹き返したことだ。礼を述べる妻に 医師は…貴女にかかりきりで私は何もしていま せん…手術を終えて赤ちやんを見ると保育器の 中で泣いていたのです…これは奇蹟としか私に は言いようがありません…と語った。
 鹿児島市で産婦人科医院を開業されていた真 田三郎先生は当時六十歳位であったろうか、そ の顔体つきに俗悪さは微塵も無かった。その病 院は建物も設備も古く、蛍光灯がちらちらする と先生自らが新しいものと取り替えておられ た。妻の語るところによると、医院の看護婦は 六名程いて皆先生の人格を反映しており大変気 持ちの良い人たちであった。深夜看護婦を起し 用を足すのは申し訳無いと動けない患者は我慢 に我慢をするが、我慢し切れる訳は無く呼ぴ出 しベルを押す。すると廊下をやって来る看護婦 は何か歌謡曲をフンフン口ずさんでいる。はい どんなご用を足しましょうかと溌剌と現われ る。疲れた・眠い・イライラ・無愛想な仕草な ど全く無い。そこで患者はホッと救われた気持 になる。最近では病院間の競争が激しくサービ スとやらの向上を図ってはいるが、この医院の 看護婦たちは真の使命を自覚していた。しかし 一人だけ未だこの使命を自覚出来ずにいる看護 婦がいて、深夜呼ぴ出しベルを押す時どうかそ の看護婦が来ませんようにと願うのだが、運悪 く彼女が来ると泣きたくなったそうだ。
 私と妻は生き返った次女に真田の真を貫い真 木(まき)と名付けた。

 妻  は一と月入院し、その間私と二人の子供た ちは島で暮した。子供たちは決して愚図るとい うことが無かった。私の様な身勝手で怒りっぽ い父親を持っていれば、愚図りたくとも愚図れ なかったのであろうし愚図る甲斐もなかったの だろう。長女のぬい子は四歳になったばかりだ が台を作ってやると、大きなエプロンを締めて それに乗って食器を洗った。三日も四日も私が 作ったシチユーの食事が続くと流石にぬい子も 料埋は出来ず、弟の森と手をつなぎ連れ立って 下のオバさん家に上がり込んで、味噌汁とごは んを食べている。

 私はガジュマルの枝を使って、妻が帰って来 たら座らせようと安楽椅子を作った。それを見 てイチノミヤ氏は…早い者勝ちだからな…と、 そこらに転がっている枝や紐や何やかやを使っ て私の目の前で様々な椅子を作った。イチノミ ヤ氏の言う早い者勝ちとは人の真似をするのは 嫌だから先に作ってやろうということである。 それを見て私は即席にものを作る感覚を学ん だ。決して御大層なものではなく又長持ちのす るものではないが、それを使う生活は楽しく、 壊れたら又作ればいいという人を束縛しないも のであった。

 妻  と次女真木が島に戻り私たち家族は五人に なった。真木は出生の経緯が凄まじかったのか 眼尻が極端に吊り上がり、お世辞にもかわいい とは言えなかった。妻は真木を連れてイクばあ ちゃんを訪ねた。ジクジクして湿っぼい小さな 庭を通り中に入ると、ばあちゃんはやはり囲炉 裏を前に座っていた。真木を見せるとばあちゃ んは膝に抱きとり…おおこの児か・この児か… と言っていたが、その顔が急に般若の形相とな り…ハァーッ…と真木の顔に息を吹きかけた。 元の穏やかな顔に戻ったばあちやんはギョッと している妻に…魔除けをしたのじゃよ…と笑っ た。ばあちやんはこうやってとり上げた赤児の 魔除けをしてきたそうだ。
 私はお礼に囲炉裏の焚きものにと割った松を 持っていったところばあちやんは…わしゃケサ ん木がよかがのう…とボソリと言った。松は煤 がひどいのである。勿論後日私はケサの木を届 けた。

 日  毎に暖かくなり、真木は順調に育ったが尋 常ではない出生にどこか障害が出るかも知れな いと、私も妻も心配した。眠っている真木に妻 が呼ぴかけても全く反応が無い日があった。こ りゃあきっと聴覚に異常があるんだと、耳許で 鍋をカンカンと叩いてみた。全く反応が無くぐ っすり眠っている。私と妻は顔を見合わせ暗い 気持になった。何かはずみで妻は紙をクシャク シヤと丸めた。そのカサコソいう小さな音が真 木をぴっくりさせたらしい。まるで雷に打たれ たといわんばかりに手足を震わせ、大きな泣き 声を上げた。どうも耳は聞こえ過ぎるらしい。
 異状に吊り上がっていた眼尻も次第に治ま り、今でもやはり真木の眼は吊り上がってはい るが、それなりに一応観るに耐えうる顔になっ ている。

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イクばあちゃんと ヒノばあちゃん
(その3)