■■■  東京暮らしのこと ■■■


(その)

** ***

 も  うこんな処で子供を育てるのは嫌!と妻は顔を歪 めて吐き出すように言った。
 又何かあったらしい。
 妻が語るに、行きつけの八百屋で白菜を買った、 一個が買えないので半分欲しいと言うとおぱさんは あいよと半分に切って新聞紙でくるっと包み半額で 売って呉れた、---でも包んで呉れた半分は誰が見て も小さい方だったよ---と。
 私は妻が喋り出すと決って腹がゴロゴロと鳴り便 意を催す。妻の慨嘆を推察するといろいろ思い当る。

 そ  の頃私たちは国立市のど真中に在る古くて安い 裏長屋に住んでいた。一橋大学のすぐ裏手にあって 周りは中流の下といった小市民が居を構え、本通り から外れて閑静な一画であるが音大生が関心しない 音をよく響かせている。
 家主は片手間に詩吟の教授 などしながらのんびり暮しているようで、老夫婦共 に一見温和で上品そうな風をしているが眼は小ずる そうに光る。たまに顔を合わせるとニコニコと愛想 は良いが隣家の松が葉を落して困ると愚痴をこぼ す。
 この家主の庭先を抜けて通りに出ると、それと 平行している次の通りへ通じる舗装されていない道 がある。その半ばに玉砂利石を敷いた処があって長 女のぬい子がその石で遊んでいた。その前の門が開 いて初老の男性が姿を現わしぬい子にその石で遊ん ではいけないと命じた。ちょうどぬい子の様子を見 に出た妻がそれを聞きつけ、子供が道の石で遊んで 何がいけないのですかと間うと、教員をしているら しいその初老の男性はその石は私が敷いたものだと 答えたそうである。

 ご  み捨て場で捨った乳母車を一歳になった長男と 歩き疲れた長女二人が乗れるように改造して、私た ち一家はよく散歩に出掛ける。乳母車はカラカラと 軽い音を立て長男の森は良く眠っている。後から 走って来た乗用車が退けっとばかりに警笛を鳴らし 通り過ぎた。若い母親が運転をし、助手席には白い 制帽を被った幼稚園児がちょこんと腰掛けている。
 妻は悪態を突いて足を蹴り上げたがもちろん届きは しなかった。

 暑  い夏の日、私たちは自家用二輪車で私が運転手 兼エンジンとなり市営プールへいそいそと出掛け た。前に長女を、後に長男を背負った妻を乗せ、前 籠には荷物をいっぱい詰め込んで明らかに重量オー バーでぎこぎこと軋り、埃っぽい暑い陽射しの中を 十五分程エンジンは過熱気味だ。やれやれ着いた。
 やけに深としている。金網の門は閉じられプラス チックの掲示板には本日光化学スモッグ注意報発令 中につき休業いたしますとある。長男を背負った妻 は金網を蹴ってやい聞けろ!光化学スモッグ出さ ない人は泳がせろ!と悪態を突いた。
妻は一見可愛く見える女であるが事と場合によっ ては非常に過激で柄が悪くなる。長女のぬい子は人 生とは暗いものだと納得した風な顔をしている。又 汗と埃にまみれて私たちは惨めな気持ちで長屋に 戻った。

 私  が出掛けて留守の時子供たちは昼寝をし妻は台 所にしやがみ込んで新聞を読んでいた。何か気配が するので開け放したドアに目をやると指が見える。 妻はギョッとして動けず目を剥いているとそろっと 髪が出て次に二つの眼が出てきた。二人の目が合っ たとたん覗き男は脱兎のごとく逃走した。
 妻はどんな叫び声を上げたのか 男を追いかけ通りに飛び出した。
 姿は無く猶暫く其処で妻は目を光らせていると 生け垣の繁みから若い男がこっそりと出て来た。男 は妻に気付かず何に喰わぬ顔で歩き出し妻はそっと 後を付けた。その男は近所の家に入りその家にはや はり着い奥さんが乳飲み児を抱えて暮らしている。 妻はこりや大変だ、ベルを押して奥さんを呼び出し た。かくかくしかじかその男は貴女の家に入りまし たよ。奥さんは当惑した顔でその人は内に間借りし ている一橋大学の院生で非常に真面自な方ですよと 語ったそうである。
 以来妻は真面目な大学院生は全て鬱屈した覗き男 と決め付けている。

 或  る日私はパチンコプロに成ると妻に宣言した。 一週間の三日は軍艦マーチのリズムに身を合わせ手 指を使って金を稼ぎ、四日は絵を描き本を読もうと いう計画である。
 それを聞いた妻は戦慄した。
 パチンコ屋の無いこの口永良部島は妻を安堵させ たようである。

*** **

「島民募集」